百聞は一見にしかず
この言葉は非常に怪しいと僕は思ってる。
人間の視覚は何かと騙されやすいし、見たことがそのまま事実なら優れた手品師にかかればあるはずのものが無くなり無いはずのものがあることになる。視神経を通じて情報が脳で整理されるまでにエラーがおこらないとは限らない。
写真も同じだが、写真の場合は人間の曖昧な記憶に頼ることなく、証拠として画像が残るので、たとえ合成写真や騙し絵のようであったとしても情報として多くの人と同じものを共有でき、分析もできる点は非常に優れていると言える。
その点で写真にはある種の責任が伴うと思う。
撮影者が何を見て、それをどう思い、どう伝えたかったのか?SNSのようにテキストを貼り付ければわかりやすいけれど、写真だけ見て事実と思考を伝えるには、ある程度の試行が必要だし、その歩留まりが上がることが即ち写真の技量がアップしているということになるかと思う。
以下は何気ない庭の写真
エビネランという小さな花が今年も咲いた。
とはいえ、これは咲いた記録的な写真。一応背景はボカしているけれど、「エビベランだね」と言うだけの写真。
そこでイメージとして開く前のエビネランを足してみた。
さらに説明的になり、蕾を見せたいのか、花を見せたいのか、今ひとつ説明的過ぎて写真に魅力はない。
ただ、これが悪いわけではなく説明的な写真が欲しければ正解でもある。
しかし今は、今年も咲いたエビネランの可憐さを表現したかったので、あえて説明的になる花は写さず、ポイントを蕾にしぼることにした写真がこれ↓
雨の日だったのでWBは青系にしてクールな感じに。手前にある別の植物の葉を前ボケにして隙間から蕾を写し、小ささ、可憐さを表現。
庭の隅にそっと咲くエビネランに対する想いを表現できたかなと思う。
最初に書いたように写真は記録の役割も多く、説明重視の写真であれば多くの正解があると思うが、詳細なテキストなしに、そこに撮影者の想いを載せることができたら、あるいはそれを見た人が新たな想像の世界を広げられたら、写真は事実を伝える証拠の域から抜け出すことができると思う。